
『第一印象で恐縮ですが、「あれ? ものすごい空気感じゃないの? 前からそうなんだけど、前は少し距離があったというか、遠い感じがしたというか、、、、」と思って、2003年のを聴いてみると、いままで感じていたより、季節とか時間とかの感じが直接的な感じで、ということは、
仮説(1)今回のCDによって、それまでのものまで、良さが引き出された。
仮説(2)この2年のあいだに、わたしが変わった。
と、テキトーな感想で申し訳ありませんが、今回のは特別いいんじゃないかと。ステージの躍動する感じが浮かびます。繰り返しですが、以前のより、ダイレクトな感じがします 。』
上の文章は昨年
『ripple』の発売時に芥川賞作家保坂和志さんからいただいた感想なんですが、このときの嬉しさは尋常じゃなくて,僕は「ぎゃーー保坂さんーー!」というタイトルでお礼のメールをしこの言葉をホームページなどに掲載させて欲しい(出世払いで)というお願いをし、その返事に「きゃーーわたしが、保坂さんーーです。」というタイトルのメールで快諾していただいた、という経緯があります。
昨日宅急便で
「途方にくれて、人生論」という新刊が届いて、非常に目にも手にも気持ちのいい装丁を目の当たりにしてまた飛び上がるくらい嬉しかったのですが、パラパラと読み始めたら止まらなくなって心がほだされる感じがして先に先に読み進めたくなって眠れなくなった。
この春の僕の関心/興味のサブジェクトはインディアン(アメリカ先住民)とボブ・ディランのついてのことで80%を占められていて、文庫版を機会にもう一度読みなおそうと思っていた
「カンバセイション・ピース」も購入したまま封も開けずにいたんですが、この本はインディアンとボブ・ディランの隙間にすーっと入ってきた。
何日か前の日記に書いた “インディアンの言葉で「変化」は「死」を意味する” ということと、この本のなかで述べられた“...変化や進歩や希望や可能性というのが、ただ「いいもの」だと思い込むことが今という時代を覆っている「信仰」である..” というくだりとが僕の中で繋がって、“それに気付かない人は希望がない状態のことを簡単に「絶望」といったりしてしまうが、希望とも絶望とも関係のない人生観というものもあるのだ” という記述が、数少ないボブ・ディランのインタビュー記事での「無理矢理時代の先端を走らなければいけないとは思わない。永遠に生きていられるわけではないのだから、今は今の時代を自分なりに生きる。時代に遅れないように使う時間なんてどこにあるというのか」という発言と繋がっていくのが、個人的にはすごく気持ちよくて、明け方まで眠れなかったのです。
あと「本といったら借りるものだと思っていて手元に置かない人は、知識への愛は育たないし、当然身につかない」という一節もすぱっとして爽快だった。「本」を「音楽」と置き換えても同じことだと思いました。興味のある人、時間がある人はぜひ読んでみてください。