GREEN/PEACE

昨日の夜はNHKスペシャル「硫黄島玉砕戦〜生還者 61年目の証言」とNHKアーカイブス「NHKスペシャル 赤紙が来た村〜誰がなぜ戦場に...」とテレビを観て打ちのめされて深く考え込んでしまった。証言者の元兵士の方たちはもう80歳を越えていて、しかし様々なことを克明に記憶して様々な理由でそれに封をしている。ぽつぽつと語り出す戦争の凄惨さはやっぱり認識や予想をはるかに越えている。
僕の母方のおばあちゃんは最初の旦那さんを戦地で亡くしている。だから僕の血の繋がったおじいちゃんは二人目の夫ということになるのだが、戦争に対する思いや戦時中のこととか亡くなったおじいさんのことなんかを全然話してはくれなかった。たまに少し酔っぱらって陽気になって「マッカーサーさんが来たときわたしたちゃ“松傘さん、松傘さん”って呼びよったもんよ」とか言うくらいだ。
僕がこのごろ思うのは、日本の戦争に関して語られる生の言葉を耳にすることができる最後の世代が僕らなのではないか、ということで、おじいちゃんはおばあちゃんたちが語りたがらないことに対しても、そのつぶやきや小さな声に耳を澄まして忘れないように記憶にとどめておかないと言葉が消えてしまう、と思う。
昨日の日記に書いた氷ジュース(チューペットとかチューチューが主流みたいだけど僕にとってはやっぱ氷ジュースだな)を食べると暑い夏の日におばあちゃんちと山を歩いていて「この木の実は戦争中のお菓子やったとよ」なんて話したことを思い出します。今日は広島に原爆が落とされた日で、いつもみたいに蝉が絶え間なく鳴いている。
みんなが昨日僕の問いかけにたくさん答えてくれたからまた聞くけど、皆さんはおじいちゃんやおばあちゃんと戦争の話をしたことがありますか?僕にはもうおばあちゃんが一人いるだけだけどこの歳になって改めて、長い歴史の中でのいろんなことを聞いてみたくて仕方がありません。
Posted by monolog at 20:27│
Comments(20)│
TrackBack(1) │
この記事へのトラックバックURL
いつにもまして戦争と平和について考える季節
GOMES THE HITMANの山田さんが自身のブログmonoblogで「皆さんはおじいちゃんやおばあちゃんと戦争の話をしたことがありますか?」と問いかけていて、いろんな方がコメントを寄せています。
ボクの場合、父親が広島生ま...
こんな問いかけを待っていた【CHANNEL9】at 2007年08月07日 08:49
私の一番近くにいたおばあちゃんは大正・昭和・平成と長生きしてくれたのに戦争のこと、むしろ他の会話もほとんど記憶がないくらいしかできませんでした。車で行けば1時間くらいの所にいたのに、親があまり親戚付き合いする感じではなかったようで、政の時くらいしか会いに行かなかったので、話す機会はたくさんあったのにと、亡くなった時に初めて思いました。戦争の話、今度両親に聞いてみます。
僕のおじいちゃんは体が弱かったらしく戦場へは行かなかったそうで
だからかわかりませんが、戦争の話になると機嫌が悪くなります。
たくさん戦争についてのテレビをやる時期ですからいろいろ知る機会を活用したいです。
戦時中の話は祖父にしてもらった記憶がありますよ。
ここには書けない様な悲惨な事も話してくれました。
戦後はやはり食べ物が無くて、生きていくのに皆必死だったそうです。
小学校のときに祖母とテレビで「ほたるの墓」を観た時、始まった瞬間祖母の目から涙がこぼれたのを今でも覚えています。
最初に小学校の課題か何かでおじいちゃんにいろいろ聞きました。
母方のおじいちゃんは17歳の頃特攻隊の人たちに手旗信号で見送っていた、と聞いたことがあります。
父方のおじいちゃんは台湾で魚雷にやられたなど生々しい話を聞きました。
私は父に戦時中の話をよく聞きます。当時まだ子供だった父の目から見た戦争を、父は事あるごとに話してくれます。
私も同じことを考えていました。生の声を聞けるのは私の世代までだろうな、と。
そう思うとすごく切ない気持ちと同時に、変な言い方だけど、もったいない気持ちになります。
ずっとずっと伝えて行かなければいけないことなんですよね。
うちの祖父は特攻隊に任命されましたが、出動予定だった前の日に
終戦をむかえたそうです。
話したくなかったのか、話せなかったのか、話す必要がないと思ったのか
今では知るすべもありません。きちんと聞いておくべきだったと、
亡くなってから見つけたアルバムや手紙を見て激しく後悔しました。
是非いろいろ聞いてみてください。
終戦記念日もよく知らない子どもも増えているとテレビでやっていて
すこし危機を感じました。
中学生のときに修学旅行で沖縄に行ったときに、戦争をよく知るおばぁちゃんに沖縄戦の話を聞いたことがあります。
話はその情景が見えるかのように生々しくて、すごく悲しい気持ちにになったのを覚えています。
ちょっとしたホールみたいなところで演説のような形で聞いたんですが、皆泣いてました。もちろん自分も泣きました。
貴重なお話を聞けたと思っています。
僕の母方の祖父は既に40歳を過ぎていたので、内地に勤務で、前線に行くことはなかったと聞いています。
両親はまだ幼かったので、あまり話を聞いたことはありませんでしたが、
そう考えると、自分の同級生に祖父母がいない人が多かった気がします。
もしかすると、戦争で亡くなったのかもしれませんね。
僕もNHKアーカイブスよく見ます。
戦争で亡くなった人を間近にいて見送った戦友たちが、死んだことにどうやって意味を見いだせばいいのかと泣いているのを見て、僕たちができることはその事実を知って、後の世代に伝えていくことなんじゃないかと思いました。
現在昏睡状態の祖父は海兵隊配属だかで、終戦まぢかに戦艦に乗る予定だったのが、空襲で沈没したために乗らずに済んだという話を小学生の時に聞きました。
今週末祖父に会いに行きますが話はもう聞けないし聞いてももらえません。祖母と話して来ようと考えています。
年を取り身近な死や生を体験する中で受け継ぐもの、受けて渡していく事ってなんだろう、と最近は考えます。
亡くなった祖父が小学生の私にただ一度だけ、「とても寒い国でずっと牢屋に閉じ込められていた。お腹が空いた時は、その辺を這っている虫を捕まえて食べた。」と話してくれたのを憶えています。
子どもだった私は、「虫を食べるなんてウソだぁ〜」と。多分そういう反応をすると思ったから祖父はその時話してくれたのかも知れません。
戸棚の奥に勲章のようなものがたくさん仕舞ってあって、それをカッコイイなぁなんて眺めているのを見つかった時に怒られたことも憶えています。
祖父は、罪の意識をずっと抱えていたのかも知れません。だから、毎日お寺へ行って、お寺の仕事を手伝っていたのではないかと、今になって思います。
私の母方の祖父はぎりぎり出兵にはならない年齢だったそうで、戦時中の話をしてくることも全くありません。
父方の祖父は私が覚えてる限りずっと寝たきりで話も出来なかったし、祖母も滅多に会える距離ではないので、今後も聞く機会があるのか分かりません。
私が戦争のことを感じたのは、沖縄出身の父が高校生の頃までアメリカ領だった故郷の話をしながら当時のドル硬貨を見せてくれた時と、父のお姉さんが戦争で亡くなったことを聞いたときです。
我が家には戦争の話をしてくれる人はいません。私は最後の世代から少しだけ外れてしまったのでしょうか。
昨日は戦争について考えていました。「生の証人」の方々がいなくなってしまう前に私は知りたい、知っておかなければならない、が同時にきました。テレビから「生かされたものの理由」「私は忘れたい」と言う言葉が流れ心の隅がどっしり重くなりました。
子供の頃、ばあちゃんに連れられて「かわいそうな像」と言う映画を観に行きました。今は亡きばあちゃんにその帰り道、お話しを聞けたなら良かったのにと思います。
祖父からの印象深かった体験話としては、学校に持っていった日の丸弁当を机の中にしまっておいて、さあ食べようと思ったらいつの間にか盗まれていた、という話を聞きました。
祖父は、自分が食べる分が無くなった事も悲しんでいましたが、それ以上に梅干一つしか入っていないお弁当を、級友が盗まなければならなかったことのほうを悲しんでいました。
その人だって、好んでそんな事をしたかったのではないと。
日の丸弁当でもまだ弁当がある家はマシで、弁当を持って来る事の出来ない級友だっていたんだと。
お弁当の時間に、持ってくる事の出来ない子はどんなに悲しくみじめだったことでしょう。また、運良くも持ってくる事の出来た子だって、そういう子の前で食べるのは辛かったでしょう。
実際、祖父はそういう子に分けてあげていたら、自分の食べる分が殆ど無くなってしまったとも言っていました。
私の祖父は職業軍人でした。
そのせいか、自分が軍人だったことに誇りを持っていたようで、私が子供の頃はしょっちゅういろんな話を聞かされ、写真を見せられたりしました(同居していたので)。
逆に父は、そんな自分の父親に振り回された子供時代の体験から、祖父を嫌悪していたらしく、私にそういう話を聞かせるのさえ嫌がっていました。
今思い返してみると、祖父と父が普通に会話していた姿を見た記憶がありません。
そういう父の姿、話の内容の悲惨さにだんだん私も話を聞かされるのを苦痛に思うようになり、年齢が上がるにつれて、祖父を避けるようになってしまいました。
今では、逃げちゃいけなかったのではないか、とそのことを後悔しています。
おばあちゃんの家に行くと軍服と軍帽姿のおじいちゃん、というより
父くらいの歳の祖父の写真があります。でも詳しいことを聞いたことはありませんでした。
お盆におばあちゃんにいろいろ尋ねてみようと思います。
おばあちゃんに戦争のことを昔聞いたときは、「とにかく物のない時代だった」としか聞いてませんでした。
小学校の担任の先生が子供の頃空襲にあって、そのおそろしさをいつも話してくれていたのを覚えています。
今度、両親に詳しく聞いてみようと思います。
私の父はまさに戦争が終わったその日に生まれました。当時祖母は佐世保にいて、もし長崎にいたら・・と考えると今の私は存在していなかったかもしれません。戦後の食料難の時代に父が栄養失調になりながらも無事に育った事も奇跡のような事ではないかと思います。私が産まれた時点で四人の祖父母のうち、父方の祖母しか存命ではなく、祖母も小さい頃に亡くなったので直接話を聞いたことはないけれど、叔母達からそういう話を聞くと生きていることのありがたさを感じずにはいられません。明後日は広島に続き長崎の日。心から黙祷を捧げたいと思います。
聞いたり、聞かなかったり。
記憶の間には、そんな曖昧なものしか見当たりません。
少なくとも、心にずっしりと残るような話は聞いていないのだと思います。
ymdさんの言うとおり、これが最後の世代なのかもしれませんね。
それが、どんな方向に行くのかはまったくわかりませんが。
受け継がれる言葉がいつまでも、人々の心を渡って、よい世界を作り上げられたらいいです。
うちは食べ物の話をよくしてくれます。
やっぱり食べ物がなくて、砂糖とかさつまいもなんていうのが
食べられたら、それはものすごいごちそうだったそうです。
モノもない時代だったから、今もこれはなにかに使えるんじゃないかと
色んなものを取っておくということをよくしてます。
(でも結局つかわなかったり、置き場所に困って捨てることになることも多いんだけど)
灯りも小さく外にもれないように
手元だけを照らしていたという話も良く聞きます。
今は贅沢すぎるとたまに言いますね。
山田さんの日記を読んだ後でなんとなくNHKを見てたら
戦争関連をやってたので見てしまいました。
いろんなことを知ることが一番大事ですね。