2015年08月19日

月命日の夜に



小田嶋隆著「友だちリクエストの返事が来ない午後」という本を読んでいる。“友だち”とはいったい何かを考察するコラム集だが、そのなかで「友だちが死ぬことについて」という章があった。友だちというのは二度と会えなくなってはじめてその人が替えのきかない存在であったことを知る、という至極当たり前のことが書いてあるのだけど、我々はその手垢のついた言葉をいつだって忘れてしまうのだな、と思う。いつでも会えると思って会わないでいるとやっぱりいちいち後悔することになって、どうしたら僕らはその同じ繰り返しを繰り返さないようにできるのだろうか、とあれこれ考えてみる。小田嶋氏はそのコラムのなかで、友情が死後の思い出のためにあるとするならば友だちを失うことの多い人生の後半は死と和解する準備を始める季節かもしれない、という旨を書いて、アメリカの作曲家フォスターの「オールド・ブラック・ジョー」の詩を引いて締めくくっている。僕は僕で、サイモン&ガーファンクルの「旧友〜ブックエンドのテーマ」の言葉を思い出した。ふたつの月命日の夜に。


Old Friends / Bookends

Old friends, old friends,
Sat on their parkbench like bookends
A newspaper blown through the grass
Falls on the round toes
of the high shoes of the old friends

Old friends, winter companions, the old men
Lost in their overcoats, waiting for the sunset
The sounds of the city sifting through trees
Settles like dust on the shoulders of the old friends

Can you imagine us years from today,
Sharing a parkbench quietly
How terribly strange to be seventy
Old friends, memory brushes the same years,
Silently sharing the same fears

Time it was
And what a time it was, it was
A time of innocence
A time of confidences

Long ago it must be
I have a photograph
Preserve your memories
They're all that's left you.


古い友だち、旧友同士が
公園のベンチにブックエンドみたいに座っている
風に吹かれた新聞紙が芝の上を舞い
老人たちの丸いつま先にたどりつく

古い友だち、冬を過ごす仲間、年寄り
コートにくるまって日が暮れるのを待ちながら途方に暮れ
街の喧騒が木々の間をすり抜けてきて
埃のようにふたりの肩に積もってゆく

僕たちもいつかあんなふうに
ベンチをわけあって座るなんて想像できる?
70歳になった自分なんて考えられないや

友だちよ、ともに過ごした記憶は色褪せない
同じ恐れを静かに分かち合うのだ

時間、過ぎ去った時間、それはなにか
それは純真無垢だった日々、疑うことも知らなかった時代

それは随分昔のこと
僕が持っている一葉の写真に
閉じ込められたあなたの思い出
それが残されたもののすべて



Posted by monolog at 21:23│Comments(0)TrackBack(0)

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