2015年10月23日

小説「猫と五つ目の季節」のこと11|音楽と音楽家、小説と小説家



実は僕にはアルバム制作中に必ず村上春樹のエッセイを読むというゲン担ぎがある。そうすると気が紛れたり、肺の中の空気が入れ替わったり、背筋が伸びたりするのだ。『新しい青の時代』のときは『サラダ好きのライオン』を、『the loved one』のときは『辺境・近境』を読みなおしていた。「猫と五つ目の季節」を書いているこの夏の間はずっと分厚い問答集『村上さんのところ』を息抜きにつまみ読みしました。ようやく時間ができたので“自伝的エッセイ”『職業としての小説家』とその後日談インタビューである「MONKEY」掲載の川上未映子との対談を読み終えて、いろいろ考え事をしてるところ。

本日武蔵小山で開催される“月あかりのナイトリスニング”では小説と本をテーマにトークとライブをするのだけど、僕が初めて意識的に“小説”を読んだのは、山本有三の『路傍の石』である。1937年に朝日新聞に連載開始され最終的には未完に終わった小説なんかを小学生の僕がなぜ読んだかというと父親が「面白いから読んでみらんか」と言ったからだ。本の内容よりもなぜ父がこれを、ということばかり考えた。東京に出てきて三鷹の山本有三記念館を訪ねた時は感慨深かった。ベストセラーになった村上春樹『ノルウェイの森』を背伸びして読んだのは中学2年生の頃で(中二病だ)心の病や性愛、若さゆえの葛藤のようなものを「やれやれ」とわかったふりをして、鼓動が密かに高まった。いつもクリスマスの頃になると『ノルウェイの森』を思い出すのは深い赤と緑のせいだ。思えばそれ以来ずっと僕の本棚には村上春樹の本が並び続けることになる。そういう読書遍歴などの話も今夜できたらなと思っています。

音楽を生業にする自分が小説を書くことに気恥かしさや不安がなかったというとうそになるけれども、『猫と五つ目の季節』は1枚のレコードを作るように丁寧に最後まで楽しく(そしてちゃんと苦しんで)完走できたし、これは自分以外の者には書き得ないし、自分以外の人間には書く必要のない作品だという自負がある。だからこそ『職業としての小説家』は僕にとって面白く示唆に富み、楽しい読書の時間だった。今このタイミングでこの本を読めたことが嬉しい。村上春樹の『アフターダーク』という小説には高円寺に暮らす“高橋テツヤ”という不穏な人物が登場するが、その人と同じ名前の音楽家から届いたメールはとても勇気づけられるものだった。今日はその感想コメントを紹介します。



餅は餅屋、なんてことわざもあるように、音楽家は音楽、小説家は小説を極めるのが本分だと、
個人的にはそう思っている。なのでミュージシャンの書いた小説なんて言われれば、
もうそれだけでハードルを上げて読んでしまう自分がいるのも本当のところ。

大切な友人であり、尊敬するシンガーソングライターでもある山田稔明君から
「タカテツさん、実は俺、今、小説書いてるんだよね」と話を聞いたのは
ちょうど半年くらい前のことだったか。
もうすでに仕上げの段階に来ているというその小説は
『猫と五つ目の季節』と名付けられ、静かに完成の時を待っていた。

結論から言えばこの小説はあらゆる意味で嬉しい「例外」となった作品だ。
ミュージシャンが書く小説なんて、という食わず嫌い的なイメージを一掃してくれる、
なんとも穏やかで素敵な本だった。山田君と親しくなってまだ数年。
知らなかったポチさんとの出会いや、ポチさんがもたらした幸福な日常の風景が
とても微笑ましく儚く感じられた。リリースされた順番こそ前後しているが、
山田君の最新アルバム『the loved one』こそ、
この『猫と五つ目の季節』のサウンドトラックと言えるのではないだろうか。
愛するものに捧げた音楽と小説。そう思わずにはいられない。

最後に、山田君。俺はこの先も「猫と暮らさない人生」を過ごすよ。
だってこれで猫や動物と暮らしてしまったら、いよいよ本当に結婚できなくなりそうだからね(笑)。

『猫と五つ目の季節』出版、おめでとう!

高橋徹也(音楽家)


Posted by monolog at 12:00│Comments(0)TrackBack(0)

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