ポチ実は2014年、先代猫ポチを失った2ヶ月半後の秋に突如うちの小さな庭に迷い込んだ野良猫。ポチと同じ縞三毛模様、生まれ変わりだ!と信じて疑わない僕が1週間ご飯をあげて手なずけて、えいや!っと捕まえてうちの猫にしたのです。それはそれはかわいい顔をしていて、そのかわいさは4歳になった今も変わりがありません。ただ、僕らがベタベタとくっつき合って暮らしているかというと実はそんなことはなくて、あくまでもポチ実にとって僕はあの日以来「あたしを捕まえて自由を奪った飼い主」という認識らしく、かなりドライな、たとえば思春期の女の子とそのお父さんくらいの緊張感を持って生活を共にしているのです。だから4歳になっても落ち着かずにいたずらするし、僕が思わず「ちょっとチミちゃん…やめてー」とあたふたしてしまうようなことを、する。毎日する。

僕らが住む街をいつからか仮名で猫町と呼ぶようになった(近藤研二さん宅も2ブロック先の同じ猫町)。この猫町には猫がたくさんいる。飼い猫も、地域猫も、野良猫も。ポチ実がうちの猫になってからすぐ、とてもきれいでクールな眼差しの猫が庭先に現れたのだけど、それがチミママだ。その容姿からポチ実のお母さんかなあと想像していたらご近所の情報で裏が取れた。チミママはこの町界隈でどんどん猫を産み増やしている野良猫だったのだ。チミママはその後むさしの地域猫の会のボランティアスタッフの方に捕獲器で捕まえられて不妊手術を受けて元いた場所に戻されて地域猫になり、今でもほぼ毎日うちにご飯を食べにくる。だから、チミママとも僕は4年の付き合いになるわけだ。
今年に入って、かつてクマと名前をつけていた野良猫が数年ぶりに我が庭に現れた。この猫はチミママが最後の子供(チッチとミンミと名付けて、この子らも保護されて今2匹一緒で元気に暮らしている)を産んだときの父親、警戒心の強い猫ですぐ逃げてしまうのだけど、やっぱり元気でいてくれたことが嬉しい。それで思い出したのが多分ポチ実の父親だったはずの茶白の猫で、この茶白(チミパパと呼ぶ)はポチが元気だったころに一回だけうちの庭の塀の上を悠然と歩き去った。ご近所情報によるとチミパパは数年前にお向かいの家の庭で亡くなっていたのを発見されている。ポチ実の姉妹のチミオ(最初オスだと思われていたのが女の子だった)とサビ子という猫のことも忘れない。このあたりの猫騒動のおかげで僕はご近所に親しくする知り合いがとても増えた。









近藤さんちのモイとウニ、お隣にはノアちゃんというベンガル猫とマルプー犬のリルくんがいて、お向かいにはマコちゃんというキジ猫がいる。少し歩くとミルちゃんという猫がいて、この猫はポチ実によく似ているからチミママと関係があるのかもしれない。ポチ実は今でも人見知りで内弁慶だけれども、この猫町には交わったり交わらなかったりする軌道のようなものがあって、それは小さな宇宙のようなものを構成している。どこの猫もかわいいし、みんなが元気で長生きすればいいなあと毎日思うのです。この冬もうちの庭にチミママ用の小屋を作ってあげた。電気アンカの低い温度で温めてアルミの断熱材を敷き詰めて快適、二日に一日はその小屋から眠そうに出てきてあくびをして伸びるチミママを眺める朝に出会う。
ポチ実は僕の布団に一度か二度まさぐり入ってきたのだけど、やっぱり自分の寝床で寝るようになった。今年は暖冬なのだろうな、と思う。そして、今日もポチ実を見てかわいいなあ…と思う。きっと明日も明後日もそうなのだろう。猫は平和であり、正義である。なんと自由で美しい生き物だろうか、と毎日毎日、目がさめるたびに思うのだ。カレンダーをめくるように。
