2022年07月04日

15年前から今|今週末の山田稔明トリオ編成公演のはなし

15年前の今頃、GOMES THE HITMANは2007年6月吉祥寺スターパインズカフェでのライブを最後に長い活動停止期間に(前触れもなく)入った。2005年に『ripple』をリリースして2年かけてレコ発ライブをやってエンジンが停止したみたいになった。で、僕はその2007年から本格的にソロ活動を始めることになったのだけど、とにかく心細い時期だった。弾き語りと並行して手練れの音楽家たちに支えてもらって、最初「kickingbirds」という名前のバンド編成でやっていた形態はメンバーが変わったり増えたりしてその後の「夜の科学オーケストラ」へと変容していくわけだけれど、イトケンさんと安宅浩司くんは最初期から僕にずっと力を貸してくれた二人だ。

イトケンさんとは2001年頃からの付き合いだからもう20年とか。安宅くんはたしかアニメの楽曲制作をしていた頃に出会って、同い年ということで同志感がある。加古川チャッツワースとの繋がりも安宅くんがきっかけだったりもする。僕がソロで曲を作って、最初にデモを渡すのはいつもこの二人だったので、今週末のライブはそのソロ黎明期の頃の気分で演奏してみようと思っている。ときに僕より僕の曲を理解している二人とのトライアングル、ぜひ会場で配信で歌を聴いてもらえたら嬉しいです。

15年前、僕はよく絵を描いていた。時間を持て余していたのかもしれないし、行き場のない気持ちが絵筆を持たせたのかも。自分のために書いた曲をイメージして描いたふたつの絵、ひとつは「home sweet home」で、もうひとつは「glenville」。この2曲はもちろんセットリストに入る始まりの曲。なんとなく、「絵を描く」ようなライブになればいいな、と思っています。来場チケット、視聴チケットともにプレイガイドで発売中。併せて当日会場精算の前売りチケット取り置き予約もこちらで受付開始しました。

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2022年7月9日(土)@ 吉祥寺 STAR PINE’S CAFE
山田稔明 SOLO-LIVE:FAVORITE POET vol.3
ー夜の科学トライアングル

開場18:30 開演19:00/前売 4000円(+1drink)当日未定
出演:山田稔明(GOMES THE HITMAN)
itoken(perc.)、安宅浩司(pedal steel, mandolin, guitar, cho.)

昨年から続く山田稔明ソロライブ第3弾はitoken、安宅浩司を
迎えてのトリオ編成で新しい季節の歌を歌います。

■前売りチケット取り置き予約(当日精算*整理番号をお持ちの方が先の入場となります)
http://www.gomesthehitman.com/html/modules/live/index.php/content0002.html

■来場チケット(整理番号順入場/全自由)
現在発売中!
e+:https://mandala.gr.jp/SPC/schedule/20220709/

■配信チケット
配信開始18:50/演奏開始 19:00
料金¥2500
チケット販売期間:6月4日(土)10:00 - 7月15日(金)20:00
アーカイブ視聴期間:7月15日(金)23:59
販売URL:https://eplus.jp/sf/detail/3642700001-P0030001


吉祥寺 スターパインズカフェ(https://mandala.gr.jp/SPC/
〒180-0004武蔵野市吉祥寺本町1-20-16 B1
Tel 0422-23-2251 (16:00 - )  

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2021年07月13日

町はぼくらのもの|1985年のまちづくり宣言

この前の連休、ぼくは大阪への一人旅を経験した。「うわっ、かっこいい」というのが第一印象だった。道路のそばにぽつぽつと木が植えてあるくらいで、緑なんてほとんど無かったが、きたない町だなんて全然思わなかった。それは時代の移り変りと、近代的建物にあこがれているぼくがあるからかもしれない。ぼくたち現代っ子としては、ぼくの町基山にも、もうちょっと大きな店などもふやしてもらいたいし、かっこいい建物も立ててもらいたいのだ。

ぼくの住んでいる基山も見方を変えれば緑も多いし自然のあふれる良い町だと思うけど、大阪のような大都市になってもらいたい。と言っても、近代的な町になりすぎてもいけない。どんどん意味もなく都市化していくと、公害もおこるし東京みたいにスモッグが発生するおそれもあるだろうから、いくら近代的になってもそんな事がおこるならだめだ。未来の町は、ぼくらがせおっているのだから目を皿のようにして世の中を見守ってぼくたちみんなが幸福になれるようにしないといけないと思う。そう考えると、やっぱり緑が必要になってくる。

結局、ぼくが考えるには、市がい地と緑地を半々位に分けて、町作りを行っていけばいいのではなかろうか。工場などの害を出すおそれがある所には特に念入りに緑で工場をかこむ位のことをしないといけないと思う。緑は、この世の中から消すことはできないしこの世の中に必要なものなのだ。近代的な建物も時代が変るにつれてどんどんもちこまれて、基山も大阪のように大都市の仲間入りをするだろう。しかしそれにつれて緑もふやしていかなければならない。まちがえても基山を公害の町にしてもらいたくない。しかし「家の近くのあき地に大きな店などを建ててもらいたい。」というのがぼくの本音だ。町はぼくらのものだから。

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・・・いきなりなにかと思われるだろうが、これは僕が小学校6年生の夏に書いた作文なのだそうだ。先日突然、実家のある佐賀県基山町の松田一也町長から「偶然こんなのを見つけたばい!」というメッセージと写真が届いた(松田町長は何をしていてこれを見つけたのでしょうか)。そこには口が半開きのメガネ坊主の写真、そしてこの文章が僕の名前とともに載っていた。僕は「まちづくり月間」作文コンクールで “優秀賞” を受賞し表彰されたらしい。その作文が町の広報に掲載されたのだ。

広報に記された日付は昭和60年7月13日、西暦でいうと1985年だから、今から36年前の今日、ということになる。僕はどれだけ記憶を手繰り寄せても、表彰式のことも、この作文を書いたことも、ほんの少しも思い出せないのだからとても不思議だ。作文冒頭に出てくる大阪への一人旅というのは、父が当時住んでいた大阪の天下茶屋へ遊びにいったことだというのはわかるんだけど(父に見せたかったな、これ)。とにかくこの「まちづくり」に関しての文章を読み解いて、11歳のトシアキ少年と36年ぶりに再会したみたいな気持ちになっている。このとき君は将来どうなりたかったかな。今みたいになってるなんて想像もしなかっただろうな。この文を読むにつけ「こういうことを書いたら大人は簡単に喜ぶのよね」みたいな姑息な感じすら伺えるが、文章の書き方やコラムの組み立て方が今とあんまり変わってないところが、すごい。大したものだなと思う。

僕はそれから15年後にGOMES THE HITMANというバンドでデビューして「まちづくり三部作」という作品群を作ることになる。架空の街を舞台に「僕」「君」「彼」「彼女」が物語を紡ぐ『new atlas ep』『cobblestone』『maybe someday ep』の3作だ。果たして、この作文は「まちづくり」の序章ープロローグだと言えよう。三部作から21年経った2021年、あらためて僕はそのエピローグをしたためるべきときなのかもしれない。コロナとかオリンピックとか緊急事態宣言とか、去年からの散々な日々を過ごしてみんなこの町の暮らしにうんざりしている。いい加減もうわかったよね、秋の選挙でしっかり民意を示して、またこの町を好きになろうよ、というのがぼくの本音だ。町はぼくらのものだから。  
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2014年06月15日

また15年昔の話

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天気のいい週末にぼんやりとまた15年前のことを思い出している。このブログを始めたのが2004年(10年前)だし、1999年はまだ自由に操れるコンピューターを持たなかったので、当時の画像やデータがなくてほんの少しの資料しか残ってないのだけど、とにかく15年前の6月はたくさん旅をして毎週のように歌を歌っていたみたいだ。GOMES THE HITMAN『weekend』発売日の1999年6月5日あたりのスケジュールはこんな感じでした。


1999年 5月30日 タワーレコード札幌ピヴォ店
1999年 6月4日 タワーレコード名古屋近鉄パッセ店
1999年 6月5日 タワーレコード梅田店/HMV心斎橋店
1999年 6月6日 WAVE梅田店/タワーレコード心斎橋店
1999年 6月12日 HMV渋谷店(フル・バンド・ライブ)
1999年 6月13日 WAVE池袋店
1999年 6月20日 タワーレコード新宿店/HMV池袋店
1999年 6月25日 HMV横浜店
1999年 6月26日 HMV天神店


ものすごく稼働している!今はないレコード屋さんもたくさん。一日二回まわしのダブルヘッダーも少なくなく、当時の忙しさがよくわかる。この全国を回るインストアツアーでGTHは「インストアイベントでよく売れる=偶然初めて音を聴いてその場で買ってくれるお客さんがたくさんいる」という法則がレコード会社と事務所の共通見解となり、その後のリリースのたびにストアライブをたくさんやるようになったのだけど、正直この頃のことは忙しすぎてほとんど詳細を憶えていない。インストアイベントをやるのにもお金が必要なわけで当時のレーベルがどれだけバンドに手をかけてくれたかがわかる。『weekend』のレコ発ライブは翌月1999年7月の渋谷屋根裏で行われたのだけど、これも今考えると非常に意外な会場選びで、どうしてそういう流れになったのかも僕自身の記憶の中にぽっかりと空白な部分がある。ああ、この頃の日記があればなあ。

ライブヒストリーを紐解いてみるとこの時期、6月22日に大阪バナナホール(ここももうない)でジェリー・リー・ファントム、エレファント・モーニング・コールとともにFM大阪とLマガジン共催のイベントに出演しているが、これは多分に「GOMES THE HITMAN」といういかついネーミングが招いた身分不相応なライブだったのではないか。この日の演奏後とても落ち込んだことをなんとなく憶えているし、こういうこちらの意思とは違う解釈で対応されることも少なくなかったように思います。その、7月渋谷屋根裏での『weekend』レコ発ライブは超満員で大盛況だったという記録があって、ステージが信じられないくらい暑かったことも憶えている。もしタイムマシンがあるなら観客として観にいきたいと思うが今のところタイムマシンは(皆さんご存知のように)ない。一番タイムマシンに近いのはやっぱりCDから鳴る音だろうか。再生ボタンを押すとキュルキュル、パーッと時間が巻き戻る。
  
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2013年02月15日

エレキと「何者」と思ひ出ぽろぽろ



昨日のこと、一日中コンピューターに向かってエレキギターを弾いていた…。初めてエレキギターを買いにいった中学を卒業した後の春休みのことを思い出す。友だちのやっちゃんと福岡天神まで出かけて、その当時僕はガンズ&ローゼズに夢中だったから買うのはレスポール・モデルと決めていて、虎目のキレイなサンバーストの8万円くらいのやつと小さなアンプを買ったのだ。やっちゃんとふたりで興奮して。

そして今度は高校生になったら髪が伸ばせる(僕らは中学時代丸坊主だった)のが嬉しくてヘアムースを買いたいというやっちゃんにつきあって、また興奮してムースの匂いを嗅いだりして。帰りの電車に乗ったつもりがぜんぜん違う方向に進んでいることにも気づかず僕はギターのソフトケースのジッパーを少し開けてネックを触ったり、やっちゃんはまだ伸びかけた芝生のような頭にムースをつけたりして、気づいたら炭鉱町みたいな場所に辿り着いていた、という微笑ましく懐かしい早春の一日を。

しかし朝井リョウ著「何者」をさっき読み終えて、ああ、大学時代にはもう戻りたくないな…と思った。身につまされるような読了感。僕は教職免許を取るために実習に行ったりしていたため就職活動にはかなり出遅れた4年生だった(その当時3年のときは何もしていない)。受けられるレコード会社の募集にすべて落ち、就職浪人しようとしていたときに映像制作会社の面接を受けて数日後に現場へ駆りだされ数日後に内定が決まったのだけど、社会に出ることがどういうことかなど全然わかっていなかった、と思う。

そして4月には正社員として映像制作会社に勤務することになるのだが、最初の仕事はNHK衛星放送の音楽番組のためにアジアから集まったティーン・アイドル(男女混合)のアテンドと通訳だった。ホントは英語なんてしゃべれないくせに面接で自分を大きく見せる嘘をついた罰だ。それでもなんとか彼ら彼女らと原宿に遊びにいったり19時過ぎの誰もいないクラブに連れていったり面白かった。昨日気分転換のためにトイレにポスターを貼ったのだけど、そこにある単語を見てハッとした。その通訳アテンド仕事で一番最初に覚えた英単語は“CHOREOGRAPHER”という言葉だったなあ!とみるみる記憶が蘇ってきたのである。17年前の桜が満開の4月のこと。  
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2012年07月28日

オリンピックと思い出ぽろぽろ

以下の文章は8年前2004年のアテネオリンピックのときに書いた文章で、4年に1回のオリンピックのときには飽きもせず同じことを思い出したり思い返したりする。今日も壮大な開会式を観ながら「そういえば」と同じことを思い出したので(また改めて読み返したので)ここに転載します。「オリンピックと思い出ぽろぽろ」2004年8月の記録。

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ベランダのニガウリに花が咲き朝から驚喜。しかしバジルと青じそが虫に喰われてしんなりしている。果てなく続くかと思えるオリンピック開会式を見ていて世界は広いな、というか、どこまでも「ある」な、と思いました。

いつも4年に1回のこのタイミングで思い出すのは高校時代の体育祭で、入場行進のときに3年4組(僕は3年2組の私立文系クラスだった)だけが「USA式入場だ」と言い張り足並みをまったく揃えず来賓のテントに向かって手を振りながらダラダラと行進して、体育教師にすごい勢いで怒られていたのが面白かった。

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2008年01月07日

年の初めと故郷の空

jr1jr2結局実家に帰ったところで家族団らんが苦手な僕は(一人っ子だからね、家族団らんとはすなわち絶対的に親と対峙することになって面倒くさいのだよ)大学生の頃のように友だちと会ったり車を借りて勝手に山に登ったり街に買い物に行ったりするのだ。

老人介護施設にいるおばあちゃんにも会いにいった。昨年秋同様に山奥深いおばあちゃんの暮らした集落あたりにも足を運んだ。すべての車がそこに引き込まれていくみたいに混雑する年初めのプレミアムアウトレットやお正月に3日で飽きてしまった人が巣食うようなショッピングモールにも出かけていったし同窓会の翌々日には夕陽に染まる母校の校舎を眺めたりもしました。


地元の仲の良い友だちとは一年に一度会えたり話したりできたら良いほうだから、今回の滞在中は共有する時間を貯金するみたいにやたらと長話をした。話す内容は昔と変わらないようなところもあるし34歳でしかなしえない会話もあって面白かった。



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2008年01月06日

年の初めと同窓会

dousoukai2dousoukai1年が明けて1月1日の夕方の便で福岡へ。そして佐賀へ。帰郷は昨年秋以来だが今回もバタバタと急な段取り。出身校(中高一貫の進学校だが僕は開校翌年に高校から入学した2期生)の創立20周年の大同窓会で歌を歌うことになっての里帰りでした。

元旦の夜は地元の友だちと遅くまで話しこみ睡眠もそこそこに初売りで賑わう福岡天神へ。いろんな思い出のある街だ。会場は思っていたより広くて立派で物怖じしてしまう。顔見知りの同級生とか友だちとか先生の姿を見て時間が巻き戻る。簡単な紹介を受けて「手と手、影と影」と「hanalee」を。「hanalee」を歌うときに「今年出るCDに入る予定の曲です」と言ったからもう後には引けないな。緊張もせず気持ちよく今年初めての歌を歌えました。そこからどれだけお酒を飲んだことか。気付いたら1月も3日のお昼になっていました。

仲の良かった先生の当時の年齢を今となっては自分が簡単に越えてしまっていることや会いたかったけど会えなかった人たちのこととか同級生とは基本的にいつまでたっても同級生なのだということ、年の取り方とか仕事の選択肢とかなんとか、いろいろと思うことの多い有意義な時間でした。

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2007年08月26日

夏休み最後の週末か

p070826金曜日の夜、渋谷で打ち合わせ後土曜日をだいなしにするほど遅くまで会食。今日は姿勢を立て直す日曜日。

さて、8月最後の週末だ。小学生のころ夏休みの後半を父親の実家である愛媛で過ごすことが多かった。海が近くて、昼過ぎにばあちゃんといとこと一緒に海へ出かけ、つぶ貝をとってきてその夜にそれを食べたりしていたことを憶えている。ばあちゃんがおやつの時間になるとなぜかいつもオロナミンCをくれたことも思い出した(10歳かそこらの僕が滋養強壮のために飲んだ初めての栄養ドリンクだった)。愛媛弁は関西弁と九州弁のちょうど中間のような言葉で、数週間そこで暮らしていると自分の九州弁が少しずつ変な感じに変わっていくのがおかしかった。

ばあちゃんは例えば海から家に帰るときに「さあ、としあき、そろそろいぬじょ」という。僕は「は?」となるわけで、「いぬんじゃ、いぬ」というばあちゃんに「いぬって?」と聞くと「“去る”っちゅうことじゃ」、「い犬?猿?なにそれ!?」みたいな風景がバーッとフラッシュバックした。今でも「いぬ」とは「帰る」ということだと無意識に頭のどこかがカチッと認識している。

四国に最後に行ったのは1998年頃、テレビ番組制作の仕事をしていたころで、その時はたくさんの滝でロケをした。その前に行ったのが大学時代、いつもオロナミンCをくれたばあちゃんのお葬式のときで、自分の親父が泣いているのを初めて見たんだけども、やっぱり直視できなくてやめていた煙草を再び吸うきっかけになった旅だった。

夏が来れば思い出す、という歌を口ずさみながら記憶をたぐるとどんだけこすっても落ちない湯のみの茶渋みたいにポロポロと思い出す何かがある。今年の夏は暑くてずっと部屋の中にいたから物思いに費やす時間が長くてたくさん記憶を整理したのだ。  
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2005年10月30日

ホットカーペット

a06faebf.jpg風邪はだいぶ良くなりましたが、11月を目前にしてついに屈してホットカーペットを出してしまいました。もう猫が喜んでゴロゴロ転がって這いつくばって裏も表も熱くなって可愛くてしょうがないです。ああ、いい季節ですねえ。

毎年この季節になると僕はいつも大学時代の学園祭のことを思い出します。僕ら英米語学科は親米テックスメックス料理派(僕はこっち)と林望先生シンパのイギリス料理派に別れて激しい舌戦をし、結局イギリス料理の模擬店をやることになり、大手ビール会社に協賛を求めに営業したり、模擬店の内装外装のために池袋ハンズで買ったベニア板が大きすぎて都電に乗れなかったり、「○○くんがミートローフを焼いてきてくれないの」と泣く料理係のコをなだめたり、せっかくこだわってFOCHONの美味しい紅茶葉を仕入れたのに葉っぱをケチって出がらしで赤くしたお茶を出していたり、なんで泣いているのかわからない人たちがいたり、とよみがえる光景もたくさんありますがいつも決まって夕方になるとキャンパスの隅にある焼却炉ではダンボールや木材、草木やベニアの端切れを燃やしていて、その匂いが、当時は高校時代とかの田舎の風景を思い出させた。10年近くたった今となっては武蔵野の落ち葉を燃やしているであろう遠くから流れてくる焚き火の匂いを嗅ぐと当時の西ヶ原4丁目の肌寒く暮れてゆく黄昏を懐かしく思っている自分がいます。

やっぱり冬のほうが断然いいですね。服もたくさん着れる。マフラーも巻ける。  
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2005年09月22日

【コラム】Tシャツの記憶

b419fc28.jpg昨日はツアーグッズの追加仕入れに浅草橋まで行ってきました。GTHアパレルのお得意先は現金卸売り問屋なのでまとまった数でしか購入できないお店なのですが、店員さんが「よっ若社長、いいよいいよ」ときれいなピンク色のシャツを格安で1枚だけ売ってくれました。原宿のライブで着ようと思います。


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2004年09月26日

10年ひとむかし vol.3

orange10年前の1994年というのは多分僕が最もCDを買っていた時期だと思うが同時に最もCDを売り払ってた時期でもあるので好きなモノしか手元に残っていない。

フィッシュマンズの1994年はすごい。僕は'93年の『Neo Yankee's Holiday』からがリアルタイムで、'94年に入って「Go Go Round This World」「Melody」と連発される歴史的マキシ・マスターピースを震えながら聴き、その年の秋には『ORANGE』というアルバムでとどめを刺されました。

このアルバムは9曲入りで40分弱で、個人的に理想的で完璧なサイズだと思っています。躍動的な前半と穏やかな後半が対照的で、だから40分という時間が良い意味で長くて音楽で充満している。当時(今でも)このアルバムには非常に影響を受け、自分でも「オレンジ〜真実」という曲を書きました。  続きを読む
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2004年09月25日

10年ひとむかし vol.2

ppmなんとなく秋っぽい気候になってきたので、秋に似合うエディ・ブリケルの『Picture Perfect Morning』をよく聴いています。10年前の1994年作品。奔放な歌声が魅力的な女性シンガーソングライターですが、ノラ・ジョーンズを初めて聴いたときにエディ・ブリケルみたいだと思った、と言うと雰囲気は伝わるでしょうか。

ポール・サイモンの奥さん(25歳差!)なので彼のプロデュース、参加ミュージシャンはポール・サイモンを筆頭にネヴィルブラザーズの面々、ドクター・ジョン、バリー・ホワイトとめちゃめちゃ豪華だが、歌詞/楽曲の良さを邪魔しない安定した演奏。10年の時間をひとまたぎする色褪せないスタンダードなアメリカン・ミュージックです。「完璧な朝の風景を思い描いてごらんなさいよ」というタイトルも素晴らしい。あとジャケットもいい。  続きを読む
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2004年09月24日

10年ひとむかし

親から電話がかかってきて「あんたまたカゴメのCM歌っとらんね?」と言われた。  続きを読む
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2004年09月18日

練馬マンションブルース

dekake先日車でどこかからどこかへ移動するときカーナビに大ウソをつかれて遠回りをすることになった。通過点は練馬で、そこはまさに僕が大学3、4年と社会人になって1年ちょっとのあいだ3年間住んだ街だった。

西武池袋線の練馬駅が昔とまったく違う立派なものになってしまったのであの頃とは街の様子も変わっている。環七からちょっと入った道は混雑していて、だから左右の街並をゆっくり眺める余裕があって、焼き鳥屋とかパン屋とか生活雑貨屋とか見覚えのある店もたくさんそのままの姿で残っている。

ぼんやり歩くと隣駅の中村橋やとしまえんに辿り着くような、保坂和志の「プレーンソング」の舞台に近い場所にマンションはある。  続きを読む
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2004年08月26日

オリンピックと思い出ぽろぽろ3

fireworkオリンピックもメダルラッシュが一段落し大詰めか。浜口親子(浜口京子選手は僕が通った大学の向かいにあった武蔵野高等学校出身のはず)には非常に楽しませてもらいました。が、オリンピック会場のスタンドにニコンのカメラを下げたとくダネ!の小倉さんがいるのに気がつき「ああ、また見ちゃったよ」という感じになる。

今から13, 4年前、高校時代の夏は確実に近年ほど暑くはなかった。僕の高校はグラウンドの向こうに国道が走りその向こうはどこまでも山だったが、その山側に簡易スタンドのようなものが組まれた。そこで体育祭を観戦したり応援合戦をしたりするための4段ほどのスタンドだ。
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2004年08月20日

オリンピックと思い出ぽろぽろ2

040820-111605.jpg先日のレコーディング中リズムを録音するセッションのあいだロサンゼルス五輪('84)とシドニー五輪('00)の間の3つの五輪開催都市名を思い出す、という記憶ゲームをやりました。'88年のソウルは簡単だったが僕は'96年のアトランタを思い出せず(アメリカは2回もやっててずるいな)、アッキーは'92年のバルセロナを最後まで思い出せなかった。ソウル五輪とバルセロナ五輪の間の大部分僕は九州の田舎で高校生で、その頃のことを最近よく思い出します。

さて、体育祭で応援団をやることになった高3の僕たちは夏の盛りに練習を開始しました。僕らは3年2組(私立文系クラス)だったのでB団という名でチームカラーは黄色ということになった。誰かがどこかで手に入れてきた、応援団が有名な高校の体育祭のビデオを学校からチャリで1分の僕の家でビールを飲みながら(発泡酒なんかなかった時代)団長のSを中心にみんなで研究の日々。
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2004年08月14日

オリンピックと思い出ぽろぽろ

ベランダのニガウリに花が咲き朝から驚喜。しかしバジルと青じそが虫に喰われてしんなりしている。果てなく続くかと思えるオリンピック開会式を見ていて世界は広いな、というか、どこまでも「ある」な、と思いました。

いつも4年に1回のこのタイミングで思い出すのは高校時代の体育祭で、入場行進のときに3年4組(僕は3年2組の私立文系クラスだった)だけが「USA式入場だ」と言い張り足並みをまったく揃えず来賓のテントに向かって手を振りながらダラダラと行進して、体育教師にすごい勢いで怒られていたのが面白かった。

この体育祭では、3年生が中心になり応援団を構成して応援合戦をやらなければならず、何事にも無気力だった僕らは応援団長選出に難航し、団長を拒み続ける(それでいてリーダーシップの強い)Sくんと仲良しグループの僕ら数名は、親不孝通りでしこたまお酒を飲んだ後、天神の警固公園というところで話し合いをし、「おまえらのうち誰かがこの池に飛び込むくらいしたら団長しちゃるばってんな」と意地でもつっぱねようとするSくんの言葉にNくんが痺れを切らし、服のまま池にザブーンと飛び込んで(スローモーで見えた!)泣きじゃくりながら「おれはお前が団長やるなら死んでもついてゆくっちゃ!」、それに続いて僕らも「おれもたい!」「おれもくさ!」とみんなが声を荒げる。うつむいていたSくんが一呼吸おいて「わかったちゃ」と言った瞬間にそこにいたみんなが感極まって泣き笑いした、という春まだきの寒い夜のエピソードというのがあって、「tsubomi」という曲の「17歳の頃流した涙思い出して笑う」という歌詞の下りはこの出来事を指しているから、自然とこのクソ暑い時期に僕は「tsubomi」という曲を思い出すことになる。

ちなみに僕は応援団の中で太鼓を担当し、太鼓の叩き過ぎで手の皮がむけるという最初で最後の体験をする。高校からチャリで30秒の距離にあった僕の家は応援団合宿所となりました。当時うちにはアキちゃんという猫がいた。続く。

ats  
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