
今日なんとなく保坂和志著「<私>という演算」の文庫をあらためて買ってぼーっと読んでいたのですが、
“人間の方が犬や猫より優位に立っているというほとんど無条件の前提が、人間と犬や猫との関係を大人と子どもの関係と同じように思わせる気分を作り出している。そういうことも原因となって、「かつて確かに、年齢も理解力も自分より上の犬や猫がいた」ということを、普段は実感できないでいる。(「写真の中の猫」)”
という文章を読んで、自分が子供の頃に飼っていた猫たちのことを思い出しました。僕が一人っ子だったせいか家にはいつの時代も猫がいて、僕の記憶に残っている最初の猫はシャム猫のジロー(メス)で、それは気性の激しい、しかしシャムのいいところをすべて兼ね備えた美しい猫だった。交通量の多い国道で車にはねられたのを泣きながらダンボールに入れて山まで持っていって埋めたのを憶えてます。その後もたくさんの猫をゴロゴロいわせては同じ数だけしんどい別れを繰り返すことになります。
実家での最後の猫はアキちゃんという三毛で、隣の家のニワトリを襲ってしまい、うちの母親がわざと銘菓ひよこを持ってお詫びにいった、という逸話を作りました。そのとき僕は東京で大学生で、たまにしか顔を合わせなかったけど、子供をたくさん産んだりしてうちの親のさびしさをかなり紛らわせた猫だったのではないかと思いますが、田舎ならではの野良犬対策の毒入りダンゴを食べてしまい母にみとられながら亡くなりました。昔書いた「猫のいた暮らし」という曲はそういう喜びと悲しみに対して「どんなことがあっても分かってたって顔をして強い心を持って僕は生きていこう」という曲でした。
猫はだいたい家の中でごろごろしてるので一緒にいる時間がやたら長く、言葉を喋れないのをいいことに僕らはたくさんの秘密を猫相手に打ち明けたりしますが、この小さな(ポチは太ってるけど)生き物のおかげでどんだけ行きどころのない気持ちが救われてるか、と思うと、無表情な顔が仏様のように見えます。うちのポチは今年で7歳になるはずで、サイエンスダイエット(フード)をシニア用に変えようかと思っています。いつまでも妹だと思っていても実は年の離れたおねえさまくらいのポチ。今日も鼻をすりつけてきて可愛いよ、ポチちゃん。