少し間が開いて、一ヶ月半ぶりくらいのフルサイズのライブを昼夜2回、という下北沢レテ公演でした。いつもみたいに曲目を追っていくのではなく、今回はなんとなく全体的な心の動きみたいなこと振り返ってライブ後記を綴ってみたいと思います。ちょうど1年前の4月19日も昼夜公演、そのときはママンが屋外に脱走中で一睡も眠れないまま朝を迎え敢行した記憶に残る日でした。あれから1年経ったわけです。
初夏を思わせる陽気なのも去年と似ている。今回のライブは「夏の日の幻」「最後のお願い」「猫のいた暮らし」と続くオープニングは昼夜共通だったけど『新しい青の時代』を昼と夜にわけて全部演奏してみようと思ったのでかなり内容の違う2ステージに。

久しぶりのステージを終えてあらためて思うのは「やっぱり自分はライブが好きなんだな」っていうことで、これまで僕は「悩み事や心配事があったり気分が沈み気味なときもステージでお客さんを前にして歌っているとそれらから解放されて良い気分になれる」と思っていたのだけど、この日はちょっと感覚が違った。自分の歌声やギターの演奏が噛み合うとすーっと楽曲が何のひっかかりもなくスムーズに流れ出していって、とても開放的で気持ちがいい。無理がない、という感じ。逆に少し歌いにくく感じたり、発声や音程が不本意だったり、ギターをミスったりすると途端に自分と向き合うモードになって開いていた扉が少し閉まる。レテのライブの醍醐味は、自分自身をどれだけ解放できるかなのだな、と思った。猫をかぶっていない自分がどれだけ自分らしく歌って話せるか。つまり本当の自分で歌えるか。
そもそも僕は歌を歌うときに誰かを“感動させたい”と思ったことがない。感動とは“させる”ものではなくて、自発的に心がふるえて“感動する”ものだ。だから「感動しました」と感想を告げられると、ああ嬉しい、感動してくれたんだ、よかった、と思う。癒しというのも同じで、「誰かを癒したい」と思うのは自分的にはやっぱりちょっと違ってて、それでも「癒されました」って言われるのは全然嫌じゃない。僕ができることは提示することであり、押し付けたり無理やり何かをプレゼントすることではない、と昔からずっと考えてきた。ライブ=お客さんの前で歌うこと、それが好きっていうのはきっと考え方の交換・交歓なのだな、とこの日のライブを終えて腑に落ちた。
昼の部で自分の演奏に納得がいかなくて「あさってくらいの未来」を2回歌って、夜の部でもう一回歌った。そのなかにある「“うれしい”や“かなしい”じゃなんにも伝わらない気持ち、複雑な感情をわかりあえたらいいな」「“愛しい”や“恋しい”や大げさな愛の誓いじゃ言えないあいまいな感情が伝わればいいな」というフレーズ、自分はもうずっとこの気持ちで歌を歌い続けているのだなあということにあらためて気づく。この日は少し話しづらい話題のなかで何度も言葉を詰まらせてしまったりした気がするけれど、それが正直な自分の思うところなので、“複雑で曖昧な感情”が伝わればいいなと思った。
しばらく前から時間をかけて読んでいた土門蘭著『
ほんとうのことを書く練習』を読み終えたのはレテのライブが終わってしばらくしてからのことで、その本の後半に「目指すのは“共感”ではなく“理解”」という章があった。書き手は読者に「共感」を求めることはできない、読まれる際のゴールはあくまで「理解」に設定すべきだ、という旨の内容だったけれど、それでもそこからにじみ出るのは共感への希求だと感じた。理解する(してもらう)こと、そして共感する(してもらう)こと。そんなコミュニケーションがいいなと思う。
僕はこれからもまたずっとステージから「こんなことを思ったんです」と話して「聴いてください」と歌を歌う。誰かの耳にそれが届いて、理解してもらったり、共感してもらったり、そうじゃない場合もあるかもしれないけれど、そうやって音楽が人間と人間の隙間を埋めていくのがいいな、と思いました。下北沢レテでのライブ、とても楽しい一日だった。ご来場ありがとうございました。