
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」がサン・テグジュペリの「星の王子さま」や太宰の「人間失格」などと並んで、若かリし頃に人がしばし陥る(そして若さゆえ許容されるべき)“自分だけは純粋なんだ”という思いに強く訴える書であった、という記述に納得。サリンジャーは“はしか”のようなものだという僕の思いをさらに“翻訳”してもらえたように思いました。「生きる違和感」というものが実は普遍的なものである、という不思議な矛盾が面白い。
年を取らない(時とともに入れ替わっていく)多感な若者の代弁者としての重責に背を向けてサリンジャーはこの世から姿を消して生涯を終えたけれども、それは“書けなかった悲惨”というよりも“書かなかった栄光”だと称えることができるだろう、と追悼文は締めくくる。いつだってそうだ、“生きる違和感”に対する答えは提示されるものでなく、なにかをきっかけに深く思案するものなのである。
そして関心は、本当にこれからサリンジャーが隠遁生活の中で書きためてきた未発表の原稿が出版されるのかどうか、ということで(いくつかの長編も書き上がっているという噂もあるらしい)、40年分のタイプライターが打ち込んだ文字の連なりに21世紀の今日めぐり逢えたらそれは奇跡のような、素晴らしい再会だ。
大学でサリンジャーを専攻していたというのが青臭くて少し恥ずかしかったのだが(ビート文学の授業を受けていたことも同じだ)読解に対して答えを提示されることがないサリンジャーの文学には底無しの余白が残されていて、興味の尽きない対象だな、と今では強く思う。