朝井リョウ「何者」を読んで“もう二度と戻りたくない”と思った大学時代のことを、今度はひとつずつ思い返していた。うちは小さな大学で同じ学部に80人しかいないし、カフェもキャンパスにひとつしかないのでふらっと学校に出かけたら誰かしら知り合いがいて、何をするでもなく待ち合わせて夜が更けたらなんとなくサヨナラするというぼんやりした日々がこのまま死ぬまで続くのではないかと感じていた。それでもその居心地は悪いものではなく、怠惰なぬるま湯の、「ああ、これをモラトリアムと呼ぶのだろうな」と自覚しつつも時の流れにまかせるような4年間で、この季節がなかったら書いていない歌がたくさんある。その頃の僕には巣鴨から歩いた西ヶ原が毎日の中心でそこに閉じ込められ、今みたいにいろんな街で歌を歌うことになるなどとはつゆほども思わなかった。言葉にならないいろいろな記憶がボコボコと湧くような午前4時の物思い。
そんなことを思ったのはきっと高橋久美子ちゃん初めてのエッセイ集「思いつつ、嘆きつつ、走りつつ」を真夜中のコーヒーと一緒にパラパラとめくって数章読んだせいで、光のなかでキラキラと埃が舞うように思考と感嘆、諦観と焦燥と希望etc..を書きとめようと言葉が立ち上がってくる様子は一昨年夏の徳島ヒトノユメ展や去年のギャラリー芝生「家と砂漠」で観たアクリル板に切り取られた言葉たちのようにゆらゆら揺れていた。
昨日は彼女が企画した「高橋久美子が行く!」という歴史散歩的なイベントへ遊びにいって、知らないことばかりで面白かった。音楽と詩と無農薬ミカンと小江戸川越と歴史、点と点を線で結んであやとり遊びするような自由さが本当にユニークだなあと思う。2時間半のトークのあとは当然のように心が川越へと誘われた。レコーディングが落ち着いたら行ってみよう。春の旅が待ち遠しいです。

Posted by monolog at 11:14│
Comments(0)│
TrackBack(0) │