


写真は先日の高橋久美子氏との“はじめてのソングライティング〜メロディに吹き込む言葉”の風景。真っ白で無機質なセミナー会場も蛍光灯の明かりを落とすと持ち込んだライトと窓の外のビルの明かり、その向こうの東京タワーの照明効果でライブ会場になった。“言葉”についてあれこれと思考を巡らせたので左脳が活性化されました。それでここ数ヶ月ずっと考えていたことを改めて思い出したのでここに書き記しておきます。
佐野元春&コヨーテ・バンドの新譜『ZOOEY』は痛快なアルバムで『COYOTE』と同じようによく聴いている。そのなかの「世界は慈悲を待っている」という歌。まだレコード発売前のライブで聴いたときから思っていたことなのだけど、その歌の中で「静かにその窓を開け放たってくれ」と繰り返し歌われるのを僕は「ん?」と思いながらずっと耳を澄ましていた。「開け放つ」の語尾を展開していくならば「開け放ってくれ」となるはずだが「開け放たつ」という言葉は既存の辞書にはなく、あれこれといろいろな想像が膨らんでしまった。
そしてCDが発売されて手にとった歌詞カードには、しかし、「開け放ってくれ」と記載されていた。発せられる言葉は「開け放ったってくれ」文字にすると「開け放ってくれ」。それを見て僕が思い出したのは自分自身のことで、2009年に出した『pilgrim』というアルバムのタイトルトラック「pilgrim」のなかで僕は「自分じゃない誰かが/的を得た言葉で/答えを出すと思っていた?」と歌っている。CD発売前のライブでこの歌を歌ったあとに国語教師をしているファンの方から「山田くん、“的を得た”は正しくは“的を射た”なのですよ」と教わったのだけど僕の口と口角はどうしても「まとをいた」ではなく「まとをえた」と歌いたくてしょうがない。結果として歌詞カードには「的を射た言葉で」と記載しながら、声は「的を得た」と発語している。
しかし佐野さんの場合はきっともっと意識が明確で、前作『COYOTE』まで遡っても「君が気高い孤独なら」という歌の中で「どうしようもないこの世界を/強く解き放たってやれ」(この場合は歌詞カードにも「解き放たってやれ」と記載)と朗々と歌いあげてあるのだから、彼の世界のなかでは確実に「はなたつ」という言葉が存在するのだ。きっとそれは僕が解釈するに、「放つ」と「発つ」、“leave”と“release”の意味を同包する新しい言葉である。新しい国語辞書には「鼻高々」と「放つ」の間に「放たつ」という項を設けるべきだ、などと思う春の花冷えの朝です。
追記;話はそれますが英語のフレーズを書いたときに、英語を話すネイティブの知人に文法などが間違っていないか確認してもらうことがあるのだけど、『omni』というアルバムの「happy ending of the day」という曲の英語のフレーズを診断してもらったときに「英語の文法としては逸脱するところがあるけれどもとても詩的な言葉の並びなのでこのまま歌ったほうがいい!」と言われて「それでいいのか!(これでいいのだ!)」と感動したことがある。『home sweet home』収録の英語詞曲「milk moon canyon」も「Great lyrics!」と太鼓判をもらって意気揚々と歌ったのでした。母国語も外国語も含めて、言葉とはかくも面白いものですね。