桜の写真と一緒にポチ実を掲げて写真を撮っていたら「ポチ実ちゃん大きくなったわねええ!」とお隣から驚き呆れられ、毎日何かしら猫たちが起こす愉快な騒動があって(人に言えることも言えないことも)、ご近所の近藤家もモイもウニも頑張ってて、お向かいのマコちゃんは実は男の子だったと判明したあとも変わらず日向の窓際にいてどんどん大きくなっていく。ここ“猫町”での猫騒動はずっと賑やかに続いている。2014年から書き綴ってきた猫騒動日記も第8シーズンのスタート、大河ドラマの様相を呈してきました。
この4月でエッセイ集『猫町ラプソディ』が完成してから1周年となります。猫についての文章ばかり20篇の書き下ろし文章からなる本、ポチもポチ実もチミママもみんな登場する愛すべき一冊です。ぜひ未読の方は手にとってお読みいただきたい。活字のなかから季節を駆け踊る猫たちの姿が浮かんでくるはずです。今日は1周年を記念して『猫町ラプソディ』の冒頭に掲載した「はじめに」という章を下記に転載したいと思います。もともとネコパブリッシング刊行の雑誌『ねこ』2016年2月号のために書き下ろした文章に少し手を加えたもので、この本のイントロダクションに相応しいかと思います。全国書店でご購入できますし、オフィシャル通販STOREでは特典ポストカードとサインを描き入れたものをお送りしています。
1歳になった『猫町ラプソディ』をよろしくお願いします。この町の狂詩曲は今日も鳴り止まないのです。
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はじめに
我が家の愛猫ポチ実との朝は忙しい。いきなりお腹の上にどんと飛び乗ってきて、濡れた鼻を顔に押し付けて僕を起こし、「アタシを陽当たりのいいベランダへ出せ! にゃーにゃー」とねだる。逆に僕のほうが早く起きたときは、忍び足で眠るポチ実に近付いて驚かして、起き抜けの三回のあくび――いつも決まって三回なのだ――を携帯電話のカメラで激写するグラビア撮影の時間。
うちの猫になって三回目の春を迎えようとするこの頃は、わが家の小さな庭の梅の木に咲いた花をついばむ鳥たちを見つめて、どうにかして捕まえられないものかと匍匐前進する姿が微笑ましい。猫と暮らす日々には、毎日些細な変化がある。昨日と今日が同じようでいて少しずつ違う、というのがいい。
二〇一四年の夏に、十三年間一緒に暮らした三毛猫ポチを腎不全で亡くした。ポチは僕の相棒、宝物、やわらかな宝石だった。今まで生きてきたなかで一番大きく深い悲しみを味わい、身体が痛くなるほど落ち込んで、ありったけの水分は涙になって失われてカラカラに干からびた。
そんな僕の打ちひしがれた姿を見かねたのだろうか、ポチは二ヶ月半たった秋の始まりに、魔法をかけて奇跡を起こす。ポチの生まれ変わりとしか思えない三毛の仔猫が庭にひょっこりと現れた瞬間、時間が止まったままだった僕のモノクロームの世界が、総天然色に変わった。一週間かけて仲よくなって、満月の夜に保護したその仔猫が、今朝も僕の足元にまとわり付いて「退屈だから楽しませろにゃー」とせがむポチ実だ。
猫と暮らしている人には満場一致で同意していただけると思うのだけど、僕らは猫の可愛らしさに〈慣れる〉ということがない。外出から戻ったときに玄関先で迎える猫の姿を「嗚呼、可愛いな」と思うし、日向の窓際でうとうとと舟を漕ぐ姿は言うまでもなく微笑ましい。庭先で洗濯物を干しながらふと見上げたベランダから顔を出して、僕を見下ろすポチ実は身悶えするほど愛くるしくて、手を伸ばして何度も名前を呼んでしまう。猫との生活では、こういう〈可愛い〉が日めくりカレンダーのように続くのだ。
ある時期から僕の猫への溺愛ぶりは歌詞やCDジャケット――僕の生業はシンガーソングライターだ――、さらにブログやSNSを通じてとくとくと溢れ出していった。「もう山田は音楽家っていう以前に、完全に〈猫の人〉だよなあ」と友だちに呆れられるほど。
しかし猫をきっかけに繋がる縁や出会いというものがたくさん生まれて、〈媒体=メディア〉としての猫の持つ魅力、威力にはいつも驚かされる。普通ならいくつかの段階を経て築くような友好関係を、猫好き同士なら一瞬で結ぶことができたり、初めて会う人と猫のことで泣き笑いすることも少なくない。ポチの訃報を心から悲しみ、ポチ実の登場を手を叩いて祝福してくれた人たちが、携帯電話やパソコンの画面の向こう側にもたくさんいた。それは僕にとって、予期せぬ救いであり喜びだった。
二〇一五年の秋に、初めての本を上梓した。猫にまつわるあれやこれやを書いたら、自分の半生を振り返る私小説になった。そのなかで主人公の〈僕〉は「人間には、猫と暮らす人生と猫と暮らさない人生、その二つしかない」とつぶやくのだけど、これは僕自身の心の声に他ならない。猫と暮らすにはペット飼育可能な住居や、それなりの出費が必要だ。お気に入りの絨毯には毛玉を吐かれるし、長い旅行はできない。人間よりも早く歳を取るから先に逝くことを覚悟しないといけないし、旅立ちを見送るのはつらく悲しい。
それでも猫がいると一日に何回も笑って、他愛ない会話を交わし――言葉は絶対に通じる!――、日々楽しくて、毎日が面白い。だから僕は猫のいる暮らしを選択するし、「猫と暮らしてみたいんだけど」と迷っている人がいればその背中をそっと、しかし力強く押すようにしている。
猫と人間は、お互いに惹かれ合ってパートナーになる。一方通行の意思ではその関係が成り立たないことを、猫と暮らす僕たちは知っている。ときにクールに見えるけれど、猫は純粋で無邪気で、正直に生きる美しい生き物だ。その真っすぐな瞳を覗き込むときに、僕らは全身全霊を捧げたありったけの愛で、その可愛らしさに最後まで対抗しなければならないという宿命を負うのだ。
好きなものを好きだと宣言することに、僕はもはや何の躊躇もない。もちろん一番可愛いのは我が家の愛猫なのは譲れないけれど、世界中すべての猫が幸せでありますように、と今心から思えるのは、SNSに端を発する猫好き同士の連帯感から生まれた賜物かもしれない。
冬毛でモフモフのポチ実のおなかに顔を埋めて、深呼吸するのが最近の日課だ。「おまえ、ちょっと太った?」と問うと面倒くさそうに立ち上がって伸びをして、しゃなりしゃなりと日向の窓際まで移動して、時間をかけて毛繕いをする。その姿を、僕は今日もぼんやりと眺めて幸せな気分になる。愛猫との、親子のような、恋人同士のような、かけがえのない時間がずっと続けばいいな、と毎日願っている。
僕は猫が好き。猫と暮らす人生は、かくも素晴らしい。
山田稔明『猫町ラプソディ』(mille books)より転載